譚シン培をさがして

mklasohi2012-05-01

「雨が降らなかったら霊泉山までドライブに行きましょう。」と章さん一家に誘われていた。
今日は、幸いにして雨も上がって朝10時すぎ、私の宿舎まで迎えにきてくれた。そして財大で先生をしているZさんと娘のランちゃんも加わり郊外へのドライブが始まった。同じく財大の先生であるZさんのご主人は今、香港大学へPhd留学中でお留守。最近は香港の大学に行く人も増えてきた。

運転は章さんのご主人Zhさん。3歳の娘のsちゃんは、2歳の時から「マイカーのある生活」なのだと、自分のこどものころと重ね合わせる。

目的地は武漢・江夏区のお寺で明の皇帝朱元章の親戚のお墓があり、霊泉寺十三陵と呼ばれている。武漢の郊外と言っても街中と違い、1時間もかからない。安徽省出身の朱元章は南京を都とし北京に移っている。そんな人の親戚が湖北省にいたのですね。そういえば鐘祥市にも世界遺産の陵がある。
ただ、着いてみるとランちゃんがこの春の遠足で来たばかりとわかり、取りあえずざっと見たものの、お寺も新しく作りかえられたもので興味をひかない。それより、「あの途中で見た標識がとても気になるからそこに行きたい」、と3歳のsちゃんの真似じゃないけど繰り返した。

道の途中で見かけたものは、「譚シン陪祖居」と書いた看板だった。
譚シン培。(シンは金が森のように3つ重なった字。)清朝末期の京劇役者で、この武漢・江夏の出身。「同光十三絶」と称される13人の一人で、北京に出て京劇の基礎を作った一人だ。
途中真新しい道路を左折する時、古い集落のそばに立っていた縦長の看板が見たときからお寺の帰りに行きたい〜と騒いでいた私。

Zhさんも快く車をその看板のあった当たりへ戻してくれた。そしてまずは田舎のバス停に待つ人に道を聞く。店の人に聞く。
そして村の目抜き通りの入り口に立っていた日焼けしたおじさんに聞く。あの人この人に聞くがなかなかたどりつけない。おじさんなどは目抜き通りを指さして、「まっすぐいきゃぁそんな遠くないよ」といったのだ。が、病院、電話局、店がある通りについてもそれらしきものは現れない。

Zhさんが車をおりて、煙草を買いに行きがてら店の人と話こむ。どうもまったく違うようだ。中1育ち盛りのランちゃんは、お腹がすいてしまい、Zさんが持ってきたバナナや、お菓子をみんなで食べて待つ。それにしても入口に立っていた日焼けのおじさんはなんといい加減なことを言う人だろう。確かにこれまでもいい加減に返事をする人にお目にかかった経験がある。

Zhさんの聞き込みでここではないとわかり、また車を走らせ小型バスの後ろについていく。罪なのは、あの看板。地図どころか、矢印さえない。どういうつもりで建てた標識?

小型バスを追いかけつつ野原の開発されゆく土地の真ん中の道を車は走る。台湾の会社「富士康」の工場がある。アイフォンなどの製造が許された会社だ。この一帯が次は見違えるような街になるのだ。きっと。

道にしゃがむ人に聞き、外地からの出稼ぎだとつれなく、オートバイに乗った若い人に聞く。その人の口調は信頼できそうな感じがあった。言うとおりにいくと小高い山の上に、農家の屋根が見えた。そして、車は草にかこまれた坂道を上がって行った。

丘の頂上あたりには駄菓子風の店が一軒あった。Zhさんがまた車を降りて道を聞いてくれた。今度は坂を登りすぎとわかり、「さっき言ったじゃない」と章さんと夫婦の会話。

少し後戻りしていくと、2股にわかれた道の角っこに、例の標識と同じ看板が立っていた。草で隠れた足元に今度は確かに「右へ行け」の矢印が見える。これで間違いないと喜んだ。

小高い丘の上草むらの中の道。左は池に今年の睡蓮の葉が浮かんでいる。

草野原の農家、大した期待できないなぁと思いつつ、道が行き止まりになると、果たせるかな、一軒の古い家があった。
一目見て、これだ!と感じた。

前には穀物を干したり脱穀するための石畳。煉瓦の家の窓にはめ込まれた模様。扉の上に「福」の字。


木の扉は鍵がかかって入れなかった。ほかの大人3人がこれかなぁと疑っている隙に中をのぞくと窓や、ほかの出入り口はふさがれているが、屋根から入る光で中が見える。天井からの灯りとりと雨水が流れるための溝が真ん中に掘られている。こうした作りの家は、数年前、黄陂の老街見学でも見たことがあるが、梁に彫があったり、なかなか風格がある。何より、そこに文化の気が残っている。そして奥に「譚しん培」の写真が。もはや疑いがの余地ない。みんなに間違いないよと声をかける。


裏には住んでいる人の家があり、裏に回って中に入れないかと聞いてくれた。お昼時とあってご飯を食べていたが、鶏も5月の日射しの中で気持ちよく餌を探している。
                         

私は、隙間からのぞくことができただけでもう満足していたのだが、Zhさんが村長さんなら鍵を持っているらしいと話していると一人の男の人が現れた。
この人は、譚しん培代9代目の子孫の方で同じ譚賢継さん。中は開けられないが、日本人がわざわざ来たということで、故居の前でいろいろと話をしてくれた。これが、小さな旅のクライマックスだった。

この村には80人の譚姓の子孫がいる。北京には160人、香港にも160人の子孫が入るそうだ。隣の家は、京胡を演奏する人の家だったが、どこかの新聞記者がきて持って行ってしまったらしい。残っていた衣装もやはり中央電視台かなにかが持って行ってしまったそうだ。
京胡の家は古い土の煉瓦の家で、中を見たかったが、鶏が何の用かと出てた。

故居では、漢劇の上演がされたこともあり、数十人の人が2階にも上がって見たそうだ。
おじさんも歌えるんですかと聞いて、唱ってくれた。動画サイトにアップしましたのでご覧になってみてください。
 
この方は80年代に湖北省の別のまちで唱ったこともあり、そのときお客さんが一人3元くれた、今でいえば30元以上の価値があったと、あ、でも今はお金なんてとりゃしませんよと。なかなか響くよいお声だ。さすが9代子孫の方ですね。
「譚しん培は180センチもあった人です。自分はそんなに高くないけど」と謙遜されたが、スマートで若いころはかっこいい人だったたろう。

武漢には「譚しん培公園」というのがあって、昨年?の開園当時北京の京劇団から梅蘭芳の子孫の俳優さんたち一行がが表敬訪問した新聞を読んだことがある。わたしは、当然、そこに故居があるのだと思っていた。

この譚さんの話では、やはり子孫の一人がその土地の幹部で、公園を自分の地盤に作りたいと計画を持って行ってしまったのだそうだ。当然故居のあるこの場所に作るべきで、多くの子孫が意見があり、かなり揉めたらしい。

「ここは風水で見れば鳳凰の土地で、ここに作るべきだったんだ。山の上にあるのにあの池はどんな時も枯れることがなくて、小さい廟が作られているが、あれが鳳凰水飲み場なんだ」と池を指して話してくれた。
お天気がいいせいか、見晴らしのせいか、確かによい気が流れていると感じた。
                


章さんや、お花をつんだり駆け回っているSちゃん、Zさんやランちゃんをよそに、Zhさんと2人、譚しん培の子孫の方の話に夢中になっていた。

いや、いや〜みんなごめんねと謝りつつ、
風水のよい山の上で、「熱い思いは実現するものだ」という爽やかな気分になていた。

Sちゃんたちとも遊んでくれていた譚家第11代の2人のちびちゃん達に、「また来てね」と言ってもらって山をおりた。



捜したものに出会えた素敵な旅でした。