華師文化街のカレー屋さんと神楽坂

mklasohi2012-03-18

このところ、締め切りのあるものもあって、更新を怠りがち。
金曜日の夜は立教大学のMS先生にお目にかかり民族大G先生と3人で華科大近くのレストラン「福地」でお食事をしました。お食事のメニューに洋食の要素が入ってきていることを感じつつ、いろいろと楽しくお話させていただきました。
また、昨夕は、パテシエmkさん、長沙で日本語を教えていらっしゃるHさん、米国タフツ大学から戻っているCH君、と4人で華中師範大学文化街そばのカレー屋さんでお夕食。中国で人と会うというと一般的に「飯局」つまりお食事です。
お店は、日本の方の経営で、写真がその「頂屋」の入り口。日本の家庭の味のするカレーで、師範大の学生たちで賑わっていました。

華科大から、車なら10―15分程度の場所。それが、土曜の夕方とあればタクシーは奪い合いで、結局、たどり着けたのは、1時間後でした。相変わらずお出かけも楽ではありません。

パテシエmkさんのお話では、武漢広場(プラザ)の近くで「お化け屋敷」を経営している日本人の方もあるそうです。武漢でお化け屋敷経営って面白いですね。
私はSakuraの新作のケーキやジャムを頂戴してしまい、次はわたくしもちで「中国生活大ぼやき大会」ともいいかなと思いつつ、今朝は、おいしい苺ジャムなどに舌鼓を打ちました^^。


神楽坂のこと
それは3月初めの短い帰国の時、県立広島大学T先生に南京大学の中国人のW先生と一緒に神楽坂でご馳走になりました。
金曜日の夜は予約なしにはお目当ての「鳥茶屋」には入れず、友人に教えてもらって近くの別のお店へ。夜の雨に濡れた石畳にぼんやりと灯が映る、そんな感じの場所でした。

いつもなら通訳をしながらのお食事は何を食べたかもわからない状態になるけれど、ことばの話だとなんだかそれ自体がご馳走。
私が、去年暮れに見た映画で話されていた南京語の響きが女性的で美しかったと話すと、W先生が、その80年ぐらい前の老南京語と今の南京語とはまったく違うと話してくれた。

当時、南京では多くの人たちが亡くなり、中心部には人が居なくなってしまい、周辺の農村から、どっと移り住んできた人たちが今の南京方言の元となることばをしゃべったのだそうだ。あとで調べると南京の大きな移民の歴史はその前も後も続いているようで、特に戦争の事情だけとは言えないようですが、老南京語と今の新南京語が違うものであることは間違いなく、新南京語は北からの移民ですでに第二世代になり、普通語とかなり近いということ。

そういえば、南京でタクシーに乗った時、武漢より標準度が高いと感じましたが、こういうことだったのですね。
一方、原爆で多くの人口を失った広島も同じですかとW先生の方から質問が出、T先生のお答えでは広島の周辺のことばと中心のことばとがそれほど違わなかったためにそういう変化は起きてないということです。
両方、戦争の大きな悲劇を経験した街どうし。平和な時代になって、学問の話として語ることができることは幸せです。

ところどころの地区に残りながらも、一つの地方の方言が、そっくり入れ替わった南京。中国のことばの地図は、中国内の歴史的事情などによる人の移動の動きと方言同士の接触また官話の南下による言語接触など…その言葉の勝ち負け、取り込まれ方をアニメ―ションを作って見せてくれるとわかりやすいだろうなとよく思います。

そういえば、方言学の授業で見せてもらった湖北の方言地図に海に浮かぶ孤島のようにぽつん、ぽつんと南京の江淮官话が話されている地方があってびっくりしたことがあった。湖北といえば基本は西南官話に属しているため、どんな歴史的事情が方言の飛び地という現象を生んだのか…。

あらま、神楽坂の夜のお話が、方言地図の独り言で盛り上がってきました。
夜も更けて来ました。

北京晩報には映画の南京語もフィクションであるといったことが書かれていますね。

おやすみなさい。