上海の歩き方

さて、上海のこと。
上海は数えれば7−8回目。そのうちの3−4回は卒業生とご飯を食べただけ。
今回は上海のフリーペーパーライターとしてご活躍中の りけん老師が、風の便りでこの夏には完全帰国かもしれないとのことで、老師帰国前に上海を歩いておきたいと思った。昨秋には武漢へ来られたR師、そのとき一緒だった彼女のY恵さん(グラフィックデザイナー)との再会も楽しみだった。
飛行場‐リニアモーターカー、地下鉄、タクシーを乗り継いで予約していただいた台湾系4星ホテル神旺大飯店で一休み(ふかふか枕も快適ないいホテルでした)。3人でお話、そしてその後、巨鹿路の「HOMES」というお店で上海料理をご馳走になった
透明感のある川えび、紅焼猪肉(ホンシャオチューロー)などなど。紅焼肉は豚肉の角煮だが、上海のはやや茶色がかったルビー色。味噌系の味付けで甘めといわれる上海料理の中、美味極まるものでした。暗めのルビー色目にも美しくも思い出される。
そして夜の上海の街をタクシーにのって新天地へ。横浜の赤レンガ倉庫のような雰囲気の場所で前回は昼間に来たが、夜はまた照明も美しく、オシャレ、オシャレ。今のところ武漢は上海の洗練に勝負を挑むべくもなし。




一つは外国人の上海と言う街の愛し方というか住み方にあると思う。
上海にはすでに多くの外国人が暮し(日本人だけで4万人)、コーヒー一つをとってもグローバルスタンダードのものが見つかる。外国人たちが、上海を自分たちの住みやすい街にしている、そう感じる。またもっといえるのは、それを受け入れる上海人の素養。教養も、収入も、歴史的に外国を受け入れる文化がある。次の日行った多倫では魯迅と郭末若が軒を並べてすんでいたのだ。海外の教養をつけた人がすんできた長い歴史がある。
多倫については中国語のわかる方はこちらで
前回来たのは06年真夏の多倫で、シャツ一丁で自転車で荷物を運ぶおじさんとすれ違った。明るい夏だった。


多倫もその素敵な洋館などを日本軍が占領していた時代もあるということだが、この朝、R師に連れて行ってもらった虹口一帯は昔の日本人街で、洋館にお寺の軒をとってつけたお寺や、築地本願寺に似た小さな本願寺もあった。

日本人が住んでいただろうという長屋式の建物を、R師Y恵さんと写真に取りながら、どんな日本人がどんな朝を向かえ夜を迎えていたんだろうなと思った。
なぜかそのときには忘れていたのだが、昨年5月に武漢の租界を歩き、日本租界に足を伸ばして探したときに見た建物にもこんな窓があったことを武漢に向かう飛行機の中で突然思い出した。そうだそうだ、あれとそっくりだ、とおもったのだけれど、武漢でも最近急速に取り壊しが始まっている。
武漢の旧日本人街の同じような建物、果たして写真に撮れたら並べてみますね。 
                         



そういう意味では洗練度は違うものの、武漢には「内陸の上海」と言っていい波止場文化と列強の残していった建物がある。
誰も上海のように大事にかっこよく使おうとしていないだけ。そこに不思議な魅力があることも事実だけれど、価値を与えられないものはいつか滅びるしかない。妙に新しく見せかけの無秩序な建物に変っていくだけだろう。
もう一つ29日朝連れて行ってもらったのが莫山50にある「m50」というアートスペース。
昔は紡績工場だったらしい。イギリス、フランス、スイスなど17カ国の芸術家・画廊も参加し内外のアートを展示されている。
これからもアート発信地として注目されていくだろう。この日は春節休みでほとんどしまっていたが、展覧会があるときなどはメディアにも取り上げられて賑わうことだろう。  






R師とY恵さん。お似合いのクリエータカップル。建設中のビルを包むY恵さんの作品も見せてもらいました。
二人の歩く道が、次はどこなのか。それが、きっと上海でも東京でもカイロでも、モスクワでも指宿でも、福島の海辺の町でも、能力は生かされ、またどこで出会ってもお二人とは話が尽きることがないでしょう。
                             

お世話になりました。また会える日を楽しみにしていますね。