長沙(5月3日)

馬王堆漢墓
初めて仕事で中国に来た時、長沙で飛行機を乗り換えた。丁度こんな風薫る5月だった。窓から「長沙」という文字を見つめて「馬王堆漢墓のあるところだ」と思ったことを思い出す。今回、そのときの思いを叶えることができたのは嬉しかった。今は国家AAAA級観光に指定されている湖南省博物館には、2100年の眠りからさめた、前漢初めの長沙国宰相利蒼の妻・辛追のミイラが弾力のある四肢をもって横たわっている。
発見当時の昭和47年の朝日新聞も博物館の壁のデザインの一部になっている。3000点に及ぶ埋葬品のうち、漆器の美しさや数十グラムしかない絹衣の薄さにも驚くが、大量の帛書は医療・天文にも及び、食料は骨付き肉や種の形で完備されている。水の中に浮かんだ蓮根の輪切り、毛沢東も好んだという調味料・豆豉類も含まれ、蓮根は今でも湿潤な湖南や湖北の特産の一つだが、そこに生きる人の食生活が2000年変わっていないことに、生きて死んでいった人と豊かに交流しているような気持ちになる。
夫人の一号墓のほかに、息子の3号墓、夫の2号墓も発掘されている。夫の墓の方が見劣りするのでガイドさんになぜかと聞いたら、比較的突然の死だったからだそうだ。
  
午前はこのほか、長沙を見下ろす楼閣であった城壁の上の天心閣も見てまわった。

岳麓書院
午後は中国の最初の大学でもある「岳麓書院」を見学した。といっても岳麓山に連れて行かれただけで書院は自由観光、私一人30元を払って入った。というのもここは南宋の学者・朱熹が3年ほど講義を行った場所であり、毛沢東も長沙の第一師範で学んだ後、ここで一年半ほど傍聴していたということだ。北宋の開寶九年・976年の開校、今は湖南大学の一角だ。大学時代、朱子集註の「四書・五経」(つまり朱熹が注釈をつけたもの)を読まされた。黴臭い書物の中でしか出会わない人物の影を慕って入った。
文夕の大火
ガイドさんもバスの中で語っていたが、天心閣の見学で「文夕の大火」と言われる1938年の大火事を知った。これは38年秋、日本軍は上海・南京、武漢と攻略を続け、岳陽もその手に落ち、もはや長沙も逃れられまいと感じた蒋介石軍法会議で「焦土抗戦」を決定、敵の手に落ちるぐらいなら自分の手で長沙を焼き尽くそうと火を放ったために起きた大火事なのだそうだ。壁にある説明文には五天五夜火が消えなかったとあった。死者3000人、被害家屋5.6万棟、全市の95.6%の家屋が灰燼に帰したと新浪の記事に見える。「火光冲天,热浪灼人,人嘶马叫,一片火海・・・炎は天を焦がし、熱波は人を焼き、人叫び馬啼く、一面の火の海」この天心閣を指揮の中心に四方に火が放たれている。国民党の信じがたい抗戦法とはいえ、日本軍の侵攻に発端があるならば心痛むことです。
http://news.sina.com.cn/c/2005-08-17/13027522175.shtml

臭豆腐
湖南省の食べ物は四川省とならんで中国でも一番辛いと言われるが、武漢で辛い料理に多少は慣れたので大丈夫だった。
 章さんに連れて行ってもらった「楊裕興」の麺は中国で食べた麺の中で一番日本のラーメンに近いコシと味、麺好きの方は行ったらお試しください。それから特筆すべきは、歩行者天国にある「火宮殿」の臭豆腐武漢にも臭豆腐(豆腐を発酵させた物)料理があるが、長沙の臭豆腐(チョウトウフ)は真っ黒で油でカリカリに揚げられ、唐辛子の種とお酢、お醤油のたれに漬かって出てくる。見た目にかなり恐ろしい食べ物であるが、食べてみるとあっけないほど「善良」な味。明清から続く店で、改築はされているが店の作りも「霍元甲」がお酒を飲んで好敵手と乱闘するシーンにでてくるような店(右上写真)。みたらし団子のような糖油ばーば(米偏に巴)も美味しかった。
 地図を持って地元のバスに乗る勝手な旅が好きだが、今回の旅は章さんと4日間ずっと一緒だったのが楽しかった。2日ともツアーに参加し、ガイドさんの話も聞けた。2日目は20歳の元気なガイドさん。仕事がきつい割にはお給料もあまりよくないので、3年ぐらいでやめてしまう人が多いそうだ。偶然、行く直前にTV番組で、昨年8月、事故にあい、観光客を先に救ってとバスに残こり、片足を失ったことで有名になった湖南省のとても可愛いガイド文花枝さんのことは見ていた。韶山の地図には彼女の笑顔の写真が付いていた。確かにバスは田舎道をよくこんなスピードでと思うくらい飛ばす。
http://news.xinhuanet.com/society/2006-01/19/content_4071646.htm 
湘江を渡るとき、岳麓山の上からも、毛沢東が革命会議なども仲間と行ったといわれる湘江の中州、橘子州頭が見える。また、2番目の妻や実母と3年暮らした家も市内にあり、若き毛沢東の理想のカケラを感じられるが長沙のよさと言える。
 韶山で買った毛沢東に関する本に、彼は古人に倣って「万巻の書を読み、万里を行った」と書いてあったが、やはり中国はその場に行ってこそだと思う。