お天気の水曜日

お天気のよい水曜日は嬉しい。やらねばならないこと差し置いて、とりあえず休日のお日様にあたって、猫のように伸びをする。
先学期の水曜日は助教授の奥様に歌のグループ活動に連れて行ってもらっていた。少しは聞き覚えのある歌が増えたけれども、中国の曲はなんといってもキィが高く、メロディラインもこうくるか?と思うような流れなので、練習中はなんとなく歌えるようになっても、部屋に戻って楽譜を開くともうわからない。今学期は時間帯が変って都合が合わなくなった。
それから先学期は空き時間にいくつか授業を聴講させてもらっていたが、さすがにスピードも速く疲れたので(聴講のご挨拶した以上休めなかったし)、寒さに向かう今学期は何ももぐらないことにした。そんな先学期、老師に質問して学んだことを1つ。
5月に鳳凰に出かけようとしたとき、いくつかある鳳凰のHPの中に「私たちは日本人を受けいれない」と書かれたものがあった。そして日本兵が中国人に行った残虐行為の写真が掲げられていた。今年の反日運動でも一番激しかった時期で、それらの写真は日本人としてそれなりに知っているとはいえ、それまでに見たものを残虐・猟奇・快楽性においてはるかに越えていた。ここまで見たかどうか、国民感情の差はここにもある。
そのとき、丁度、社会心理学の授業で「服従」という項目を習っていたので、授業が終わって先生に、「第二次大戦時の日本兵はなぜ、あのような残虐行為ができたと思われますか?人を笑いながら殺すというのは狂人の行為です。」と尋ねてみた。(前にも先生に、私が教室にいるからと言って、なんらかの例示をためらわないでください、そうでなければ、申し訳ないのでとお話したことがあった。)
先生の解釈は大変洗練されたものだった。「例えば、スチュワーデスのお姉さんを見てください。彼女たちは、私たちより若く本来経験も浅いのに、飛行機で事故や故障などが起きたとすると、誰よりも落ち着いて、スチュワーデスとしての職務を果たします。日本兵も同じです。つまり、この世でどんな<(角色)役割>を演じるか、それが人間にとって重要なのは、このためです」
職業として何を選ぶかは、この世で何を演じるかということ。自分が問題にしていたことの狭い隙間から敷衍して別の宇宙を見せてくださった老師の言葉はありがたかった。