どこかで
大震災から1年ですね。被災地の方のこの1年の苦しみを考えると胸が痛みます。
中国でも時間に合わせて、ニュースチャンネルでテレビ番組が組まれました。中立的な報道であったことを幸いと思う不思議。一年前早々と現地に赴き、レポートをしたCCTVの記者の人たちが、現地から伝えていました。
夕方になって、久しぶりにバトミントンをした後で、ふと思ったのは、
日本でいっしょに1周年を過ごしたかったな、ということ。
日本のテレビが今日はどう報道し、多くの人がどんな共感を持って過ごしたか。海外にいるとそれが肌では感じられない。
「人は優しくなったか。賢くなったか。/ 時は流れる、という。流れない「時」もある。雪のように降り積もる」
11日、読売新聞(オンライン)の「編集手帳」には、こう書かれている。その一方で
「口にするのも文字にするのも、気の滅入めいる言葉がある。「絆」である。その心は尊くとも、昔の流行歌ではないが、言葉にすれば嘘に染まる…」とも。
中国の番組でも紹介された「絆」という言葉が、いつのまに文字にするにも…と変容してしまったのだろう。どのように、どうして。
共通認識や共感。こういう言い方はあまりにもひとくりにとらえ過ぎかもしれないが、日本が悲しみ、あるいは日本の喜ぶことを一緒に味わいたい、肌で感じたい。そう感じることがある。
未来が人の心を明るく照らしてくれますように。