雨と食堂と麺と

連綿として雨が降る。今日もあたりを灰色に包んで雨が降っている。
あなたが行ってしまって寂しい。

3週間ほど大学に戻っていた博士友だちのCLが深せんに戻っていった。いる間、食堂で一緒に麺を食べながらも、デパートで試着する寸前まで、2人で専門の話に花を咲かせていた。

食堂のテーブルの向こう側に座った人がいなくなる感覚が寂しいのが「友だち」。

お金のある人は高いものを送ってくれる。彼女からももらった。ご馳走したりご馳走されたり。中国人の友人、ことに大人の友人が増えるに従って、その何か独特の濃さを感じずにはいられない。そんな中国流は「君子の交わりは淡きこと水の如し」を寧ろ地で行く日本人には熱く重たく感じる。

学生はお金がないので、気持ちや田舎のお母さんの手作りとか、列車を何十時間も担いできたお米とか、そんなもので表してくれるが、大人は高価な品物であったり、友人とはおごりおごられあうもので、こまかく「精算」など「けち」なことはしない。お金の使い方は日本人にとってアメリカ人と付き合うよりある意味戸惑うものだ。

また「対我好(ドイウォハオ)」と言う言葉がある。「私によくしてくれる」と言う意味。私はこの言葉があまり好きではない。自分にとって利益のあるなしで判断している感じがどことなくしてしまう。
日本人だってプレゼントの応酬があり、「中元・お歳暮」の関係もある。が、本当の「友だち」は「心の支え」であり、共にいる時間の楽しさ、あの人の話が聞きたい、話をしたい、あなたの考えが聞きたい。そんなところにあると思う。
おそらく物の無かった時代、中国の「友」は、少ないものをあなたには分けるそんな関係だったのだろう。みんなによくすることなんてできない。物やあなただけに対する特別なことを介して友情が深まっていく。兄弟家族のごとく思い合う。
冷たい雨が梧桐の並木を薄墨色にして降る。

私はやっぱり、あなたが行ってしまうのが寂しい、あなたに会えなくて寂しいと思える人を友達と呼びたい。

さて今日は一人でまた同じ食堂にて、同じ麺を食べてこよう。