時に之を習う

午前中4時間もある中文系の院の「西欧言語学理論」の授業にでた。休み時間、中国語の「着」や「過」はアスペクトではないか、であれば「詞尾」ということもでき、これらの使用が拡大している現在、グリムの「言語発展三段階論」の3つ目の仮説は中国語においてはあたらないのではということを先生と話した。中国語って古いんだか、進化の先端なんだか、さて。
戻って休憩、3時55分からは日本語の授業。5時半に終わって学生と食堂で一緒になる。楽しく麺を食べ豆乳を飲んで、殆ど家で休む暇も無く、7時から指導教官のサロンがあった。門下の修士と博士が揃い、ある修士の学生が選んだ論文の検討。今日は「一種新的暗喩格式;“有一種A叫B”」(2007年《修辞学習》)という論文だった。
自由に意見を、ということで博士1年の女性が先陣を切るがが、やや、あれれ。よくよく聞いていると他の人の議論もそれほど大したことがない。
それで何自然の「模因論与修辞」という論文にmemeという遺伝子のコピー力の概念を言語学に応用し論じられているものがあり、この観点から論じることもできること、今回の論文は認知言語学の見地から論じようとしたものだろうが、この句式の変遷過程から結論付けたとするなら、初出はいつか、どこで使われ始めたかが出ていないのは欠点であり、詩にも散文にも広告文にもあるはずだと指摘した。すると教官がメモをとっていたかと思いきや、私の指摘は大変的確、論文を書く上でのみなも注意するようにと言われた。あら。外国人も頑張るの巻でした。
ここ1ヶ月、友人たちの來漢が続き、自分の研究や、やりかけ仕事が本当に一向に終わらないが、「学びて時に之を習う」と「朋あり遠方より来る」は古来より並列。
というわけで明日の夕方から古きよき友人が来漢。お天気がちょっと心配…小雨の夜の音を聞く。