氷海の斧

おくればせに村上春樹坪内逍遥賞を受賞した時の記事を読んだ。受賞の理由の一つに「数々の翻訳で新たな日本語を構築したこと」があげられている。最近、林少華先生の中国語版のへの批判が日本で出て、何かと話題になっている。確かに林先生のブログは、私の金山詞覇辞書にも載っていないような四文字熟語が多用され、いかに文人度の高い方の文章かは感じるし、そうした言葉が翻訳の中にも現れていて、かなり平明な村上春樹の文章にどうかという議論はあってもおかしくない。また独特の世界に現れる固有名詞の訳も難しいだろう。翻訳文というものはそんな風に専門家の間で吟味され、鍛えられるもの。でも、30数冊もの作品を中国に紹介した功績は少しも失われるものではない。また、その翻訳文が読者の中国語になんらかの新鮮な影響を与えていることだろう。
中国人作家・毛青丹さんが、昨年村上春樹チェコカフカ賞を受賞したときの記事の中で、村上春樹の好きなカフカの言葉を紹介している。
「书必须是打碎我们内在的冰海的斧头」−本は自分の内部の凍った海を打ち砕く斧でなければならない。
これは、カフカの「いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。」という手紙文の中の一行のようだ。

現実の人生以上に、孤独な森への追放、自殺のように作用する本を私は読んだことがない。このカフカの言葉にしても、村上春樹の作品にしても面白いのは、少なくとも私には比喩や象徴性。
氷海の斧より、私なら、南の島で人と分け合う果物ナイフが欲しい…。

中国の伝統修辞学と社会言語学的会話分析はどう交差するか、「修辞学論文集」(北京大学出版)を読み始めたところ。森の中、あらゆるものが目を光らせている。出口は薄っすらとしか見えない。そんな感じ。