けんかするエポケー鳥

夜遅く、また雨の日でも何度もPCの不調を直しにきてくれる学生に対して、「夜遅いのに悪いね」「雨のところありがとう」とお礼を言うと「先生はどうして自分の学生にそんなにお礼をいうのですか、見外(チエンワイ)−よそよそしい・他人行儀と言われる。
また別の学生と一緒に歩いていて、手が当たり、反射的に「ごめんなさい」というと「日本人はどうしてこんなことで謝るのですか」・・・見外(チエンワイ)他人行儀とも思われる。
それは小さい頃からの母のしつけ。親しき仲にも礼儀あり。お礼は心をこめてきちんということ。人に迷惑をかけないこと。日本人暦ン十年の私には、すでに深く考えなくても条件反射的にでてくる言葉や行動だ。
一つの現象を反対の角度から見、そしてそれが、それぞれ人に対する思いから発せられているとしたら、どちらが良い・悪いと決めることはできない。
発表内容を章さんと議論する中でも、日本人のマナーとして現れる非言語行動も、マナーだからと学生に押し付けることはしない、言語情報とおなじように、非言語行動も知っておくことで、優秀な人材が低評価をうけることを避けたり、誤解による衝突をさけることを目的としている。つまり学習者にとって教師が伝えておくべき情報の一つではないかという視点に立っている。それを最終的に選ぶかどうかは学習者しだい。また、相手を理解する努力は片方のみに依存するべきではないはずだ。そんなわけで、授業で教える範囲やどのように教えていくかなどを考えている。
 ところで、異文化接触において必要な対処能力として「判断を保留する」ことが挙げられ、それをエポケーと現象学では言うそうだ。まるで南の森で木の枝に止まっているうちに物忘れしてしまう鳥の名前みたい。
 最近、あの人はなぜ…と思うとき、分からないことは判断を保留することにしている。こちらのはかり知らぬ論理もありえるからだ。そしてそんな風に判断保留をしているうちにまたせかせかと花の蜜でも吸いに出て、忘れてしまう。中国の生活でそんな極楽鳥になりつつある・・・。
 ところが、先日、中国人の先生に「mk先生は中国語が上手になって中国語で喧嘩もできると学生が言っていましたよ」と言われた。「え、まさか、日本語でも殆ど人とけんかしませんよ・・・」。
 日本に帰る前日、またもや調理用電磁炉が壊れて、服務員さんには私のせいのように言われるし、雨の夜、仕方なくタクシーに乗り、買った中商平価スーパーに持っていった。カスタマーカウンターで、売り場手書き領収証とレシートを出したら1枚が間違っていて、お姉さんが「これ、うちで売ったものじゃない、箱のバーコードも違うし・・・」等と難癖をつけてきた。1枚はあっているのだし、修理だけでも半年で2回目だ。そんな訳がないじゃない。
 正しい領収書も見つかった。電気製品売り場の人がやってきて顔を覚えてくれていた。その前にしっかり「私は嘘をついていません。少なくとも日本ではお客さんにそんな言葉遣いをしません。サービスカウンターの人は・・・」と反撃していた。
  あ、これ?
 ぽけっとしてると、雨の中、傘と電磁炉をもって追い出されかねない。修理に自分で持っていくしかないシステムもなんとかならないかなぁと、枝に止まって羽繕いしつつ、かくして、時にはけんか?するエポケー鳥になるわけです。