寂しくて美しい

mklasohi2006-03-26

昨日の夜、散歩の帰りに寄った学食に買ったばかりの本を四冊忘れてきてしまった。運動場の前の体育館で、いくら半額以下で売られていたとはいえ、60元も払ったのだから大変。早速食堂に聞きにいく。すると食堂のおばさんが待ってな、持って行くからと言ってとってきてくれた。どうせ積読になってしまいそうな難しい本と、以前も日記に書いたことのある台湾の絵本画家幾米(ジミー)の作品集などであるが、よかった。おなかもすいていたので、お行儀が悪いと知りつつ、きしめんのような麺に高菜と揚げの煮たのをのっけてもらって(3.5元)食べながら(笑)、幾米の「又寂寞又美好(寂しくて美しい)」という作品集を見ていた。「美好」には「すばらしい」とか「幸せ」の意味もあるが、幾米の作品を見ているとそれらより悲しみに似た美しさを感じる。
「1月24日 天気晴れ」と題する作品には、こうある。
「夜の帳が降りると
   私は念入りにお化粧する 口紅を引いて
    姿勢を整えて、 静かに待っている
               寂しさが訪れてくるのを 」
前のページの著者の注には、「病を得たあとの暫くの期間、私は絵を描かなかった。再び筆を下したとき、どんなに騒がしい場面も淡い孤独の絵なってしまうようになった。」とあり、木の枝に子どもたちが座っていて、その音の聞こえない静かな世界から子どもたちがこちらを見つめている。死の淵をのぞいたことがある人でなければ知りえない賑やかに生きる人の場所からの乖離。
どんな孤独が夜の霜のように、あるいは友人のように訪れてくるのかと思うと、高菜入りの辛い麺を食べながら、思わず落涙してしまった。武漢人の好きなからい料理。
 多くの人に出会いながら、フォークダンスようににこやかに挨拶をし、手を握って踊って去っていく、そんな感覚も今の暮らしにはある。
 今晩、露天映画場というところで文化祭りのオープニングセレモニーがあるということで外事所がチケットをくれた。場所がわからないのでついでに自転車を走らせた。外からは古ぼけたスタジアムのように見える。大学内の芸術団の演奏や舞踊などが予定されている。
それから久しぶりにお湯汲み場の写真を撮ってきた。湯気の中から、魔法のランプに住んでいるような係りのおじさんがぬーっと現れて、学生たちが汲みに来る前の点検だよ、今はまだぬるいお湯しか出ないから、こうして流し続けるんだよ、無駄に捨ててんじゃないよと言っていた。きっと巨大な湯沸し機からのパイプは冷たい水になっているからだろう。お昼に行けば殆ど沸騰したほどのお湯が手に入る。大きな魔法瓶を持って大勢の学生がやってきて寮に持ち帰る。大勢の人の声で溢れる前の静かな湯気の中…