武漢で考えること

10月は何かと心を虚しくしていたら、魔物に入り込まれそうになった。目を通すべき本も多いし、ぼんやりしている暇などないと言い聞かせる。
 先週の3年生の作文のテーマは、国慶節に「街で見かけた人」と「読んだ本または見た映画について」という2本立てにし、休み中に「何をやった」かではなく、「いかに外界の存在について観察し、それについて考えた」か、本・映画に関する作文は「見た作品をいかに自分のことばで語りなおせるか、また感じたり考えたりしたことを表現できるか」をポイントに書いてもらった。
 すると19名中5名が「街で見かけた人」として、乞食、花売りの子といった貧しい人について書いていたのだ。日本で同じテーマで書いてもらったとして、クラスの4分の1が乞食について書くということはあるまい。中国の抱える問題のひとつを浮き彫りにしていると思う。
 11月の体の不自由な子どものための募金ウォークにそんな学生も誘って歩いてみたいと思っていたら、International Women’s Groupのメールで「1日に変更されました」と回ってきた。火曜日だと、丁度このクラスと1年生の会話クラスがあって、漢口までウォークに参加しに出かけるわけにいかない。とほほ。ついてないときはこんなものかな・・・。
 それから、もう1つ。昨日無事、宇宙からの旅を終え飛行士たちは戻ってきたが、家族より、ともに訓練を受けた他の飛行士たちと強く抱き合い涙を流す姿が感動的だった。が、夜、朝日ドットコムをチェックして、見出しにちょっとあれれ。「・・・・宇宙飛行士 英雄扱い」。
「扱い」という表現は「英雄と呼ぶに不適当な人を英雄として待遇」するという意味だ。中国でよく読まれている「新浪」という総合情報サイトは記者が優秀と言われているが、そこの記事では「英雄」とすんなり表現していた。
今朝、学生達に、「彼らを英雄と思うかどうか」と尋ねたら20名中3人が「英雄ではありません。職務を遂行しただけ」と答えたが、あとは、誰にでもできることとは考えていなかった。先週の発射の日には、「この成功を共に喜んで欲しい」とメールをくれた学生もいた。 多くの中国人の心には偉業を褒め称える素直な気持ちが溢れていたと思う。褒賞として故郷で送られる別荘が適当かどうかを問題にしたかったのかもしれないが、「扱い」という表現にはおそらく多くの中国人の心境とは、ずれのあるものだろう。こうした心理的なずれがこれからも大新聞の報道で再生産されていくのかと思うとちょっと心配になった。