端午の理屈

昨日は授業の後で5時間にわたる卒論答弁会、そして試験問題の作成もしなくてはならなくてとっても疲れました…。

で、先日からの「ことの顛末」

端午の節句の晩、蚊よけを買って家に戻ると隣のおじさんが、待ってましたと出てきて「台所水がながれないでしょう」と。「え?」


曰く、各戸の台所の下水は共有の下水管に流れるが、古いから錆がでて物がつまりやすくて、つまってしまったとのだと言いながら入ってきて、うちの流しに水を流して、ほら流れなくなったと言って水を溜めて見せた。

確かにここ数日やや流れにくいのを感じていた。もともとつまるといけないと決して米粒など流さないように気をつけていた。朝は流れていたので出かけたあと詰まらせる訳もない。

下の階はなんともないから、3階うちとお隣の2軒、4階に1軒同じ共有下水管を使っているという。すこしずつたまってきたものだと言う。以前にもあったと。

なので、「わかりました。修理の人を呼びましょう。費用は3軒で3分の1ずつ」というと、

4階の人と思しき相手と上海語で電話し、電話が終わると、こちらを向いて、「4階の人は影響がないから、払わないってさ」と。

「わかりました、じゃ、半分ずつということで」と言うと、

流しを指して、
「いや、誰が通したいかだ。通したい人が費用が払うんだ。
うちは別のところに洗い水をすてればいいから別にいいんだ。あんたが困るなら修理を呼べばいい。呼んだ人が払うんだ。80元」

「ええ???」

授業がある日は朝が早いから朝ご飯も学食で食べたり、パンを買うし、昼もだ。食事を作る回数も、家族の人数でもお隣の方が多いのだから、単純に何かが流れたとしてもお隣からでるものが多いはず。

「お宅は何人もいらっしゃいますよね?詰まらせたのは私の責任ですか?物は流さないようにしていましたよ。なぜ私が全部払わなくちゃいけないのですか」と静かに言うと、出ていった。


中国に来て9年、毎年一回は必ずびっくりに遭遇するが、
こんなむちゃくちゃな理屈まで飛び出すとは。


共有の階段も、誰も掃除しないので、端午の節句のお休み、pm2.5用対策マスクをして一人で階段掃除をした。これはいいとしよう。きれいになって気持ちがよかったから。

でも費用が発生するものまで、一人の外国人の身に被せてくるのはそれはいけないでしょう。もし私に責任のあるものなら80元でも800元でも払うが、どうみても私一人のせいであるわけがない。


中国人の友だちに話しても、まぁ先につまりを解決したほうがいいからとりあえず修理の人を呼んでお金ははらっておいたらという。彼女もいつも共有の電球を取り換えたり、ひとりお金を払っているタイプの人なのだ。
大家さんに電話すると、中国はこうなんですよ、昔からある種の人たちは変えられない。子どもの代になったらきっと変わってくると思いますから、我慢してと。


えー、いつも声がでかい人が勝っていうのいやだ。子どもの代に変えるつもりなら、今から始めないと。


幸い忙しいし、とくにご馳走も作らないので、洗い水は大したことがない。
浴室で流してもいい。なんとなれば後一か月もすれば夏休み。秋まで隣が直さないというなら、そのときまた考えてもいい。とにかく2−3日ほっておいて、自然に任せてみようと思った。言い争いもしないし、私から修理の人を呼ぶ必要もない。

沈黙。
そうと決めたらすっきしりて、仕事に没頭。

3日目の今日午後、授業を終えて戻ってくるや、お隣のおじさんが、
「修理の人呼びますね」と言ってきた。

(家族何人もいて食事を作っているのだから、そりゃ不便なはずでしょう)と思ったが言わずに、わかりましたと一言答えた。

それから、夕がたまで隣の家の台所から修理の人がワイヤーを共有の管まで入れて、ガタガタガタガタ、つまり直し。その間何度も、うちの流れはどうかとドアをたたく…しょうがないから、ドアを開けたまま「書斎」で呼ばれない限り仕事を続けていた。

何度か見るように言われて、そして、夕がた最終的にきれいに流れるようになったのを確認した。

友人が迎えに来たので一緒に食事に出かけようとすると、お隣のおじさんが、「半分はらってくれるか」と。

お隣さんの「端午の節句の理屈」からいえば、呼んだ人が払うということだけれど、わたしの原則はそうではないので、黙って40元払った。

中国人の友だちはまさかこうなるとは思わなかったようだ。

「そうよ。これが私の願っていた解決方法。」
隣の家との間にもひびははいらなかったし…。


まぁもしかしたら、お隣からみれば、いまなお、わたしは単に半分はらってくれるお人よしなのかもしれませんけれど…ね。