街を歩けば

mklasohi2012-02-12

小さい広告会社での最終日は社長に頼まれ、社員の方々へ「日本の言語と文化」についての小さなレクチャー。
突然のですから、大したことはできませんでしたが、PCに入っていたパワポを改良、
簡単な日本語もいくつか中国音によって教えたので少しは喜んでもらえました。例えば、いくら?は「一庫拉?」「じゃ、また」は「家、馬塔」など。結構、使える発音になります。


さて、そのあと金曜夜は友達と会って食事、わたしは江漢路に一泊。

武晶にいるとあまり老漢口と呼ばれる当たりで寝泊まりする機会がないので、朝は江漢路のウォーキングストリートを見降ろし、チェックアウトは1時過でOKなので荷物を置いて当たりを一人ぶらぶらした。

宋慶齢の故居まで行ってみると、補修中。残念、いつでもいけると思ってこの7年、中に入らなかったことが悔やまれる。やはりこの時機は逸してはならぬということ。 


天気も良く散策にはもってこいの日だった。1924年と書かれた建物。これは表通り(沿江大道)にあり、食料管理局としてきちんと使われている。


しかし一歩裏通りに入ると、立派な洋館を、西洋人たち(日本人も)が逃げて行ったあとに貧しい中国人たちが住みつき、下が小さなお店、2階からが住居という2重の歴史を持つ建物となっている。

それがそれでまた漢口の魅力でもあったのだけれど、行くたびにそうした漢口の生きた歴史も取り壊され、補修が施されたものは、魅力をそぎ落とされた剥製以下の物になっている。

旧租界一帯を覆っていた時代の香り、西洋人の高貴、高慢と中国人の汗や血や生活みたいなものの混ざり合った独特な雰囲気が、行くたびに消えて、ぽつん、ぽつんと取り残されたポストのように見える。



例えば、上海路にある大きな洋館は郵便局とホテルと野菜市場になっている。野菜市場としては無駄に豪華な天井。西洋人たちがいなくなったあと、どのようにだれが恐る恐る?洋館に入って行ったのでしょう?そんなことに思いを巡らす人はたぶん少ないでしょう。   


久しぶりのお天気の日、所かまわず布団や洗濯物を干す人たち。自分勝手ともいう、生きる元気ともいう。がさがさと生きて行く人たち。       
 




一片の瓦礫になった一帯を写真に撮っていると、お婆さんが声をかけてきた。

「こういうとことるのすきなんかえ」、そんなふうに。
「ええ」、と答えると、お婆さんはそうとうな方言、武漢語をも越えている。どちらの方ですかと聞くと「イーチャン」とか「イーチュン」とかに聞こえる。もしかすると「宜昌」あるいは「宜春」。お年は77歳で8人のお孫さんがいるそうだ。

             

じゃ、おまえさんはどこから来たのと言うので「日本人ですよ」というと、「わからんねぇ、日本へは秦の始皇帝が若者男女500人を使わしたというから、その子孫じゃね…へぇ、中国人なら30代にしか見えんよ」とか言ってくれ大変「友好的」(笑)。もちろん8年の抗日戦争があった、ということも記憶にあるということだが、日本人も中国人も変わらんよねと、これがおばあさんのお人柄だろう。
また、お婆さんのすごいところは、このお年で、病院前のオートバイなど駐車、駐輪の番をしている。こんな寒空の下で…と思い少しお金でも差し上げようかとおもったが、お婆さんは私に話しかけたのはお金が目的ではない。だから、あげるのは失礼だろうとためらった。

それじゃ、と歩きだそうとすると、お婆さんは、「三日出て一日休み、ここにおるからまたおいで」、と言ってくれた。うん、また来ますね!

20-30メートル行くとパン屋さんがあり、おいしそうなパウンドケーキみたいなのがあったから2つ買った。2つで9元。一つは自分用、一つはお婆さんに、と思った。

2つ提げて、舞い戻って、お婆さん渡すと、嬉しそうにありがとう、言い、
「日本人は天主教の人が多いじゃろう?むかし天主教の日本人の人が大勢おったよ。私も天主教、上海路に古い教会があるから行ってみるといいよ、」と教えてくれた。

チェックアウトの1時までにあまり時間がなくて教会の中まではいれなかったけれど、見ず知らずの人からいろいろ教えてもらえたことがとても嬉しかった。

沿江大道であった女の子たちに写真を撮ってもいいかと聞くと、にっこり。そのあと、オレンジのジャケットの子が明るく「おばさん、新年おめでとうございま〜す」と手を振りながら去って行った。


明日から後期が始まる。
今学期は授業のない日、できるだけいろいろな人に会いに行きたいなと思う。