LY君に「会いに行く」

mklasohi2009-04-04

今日から3日間清明節のお休みだ。清明節は日本のお彼岸と同じく死者を思って、お墓に参る日。
1月11日に亡くなった卒業生LY君の所へ行こうという話は直後から出ていた。同室だった深せんのY君、上海のH君、北京のLK君が戻ってくると言って、2度ほど日程が変わり立ち消えになりかかり、でもなんとかこの清明節には行きたいねと話してきた。結局スケジュールがついたのは上海のH君だけで、彼とは卒業後、上海で2度、武漢でも1度会っていて縁の深さを感じると同時に、LY君を偲ぶなら清明節にという思いの深さも似ていたのだろう。

朝5時45分起き。昨日も夜8時まで6時間の授業で、夜中にも目が覚めた人間としては早起きが辛かったけれど、上海から開通したばかりの中国の新幹線動組車に乗って戻ってきたH君と正門で早朝6時半に待ち合わせをしバスに乗りこんだ。そして武昌駅近くの宏基バスターミナルへ。そこでクラスメートのC君と合流。C君は8時発の切符を買っておいてくれた。いったい目的地はどこなのか。はっきりとは知らされていなかった。
新聞を読んで先週の日曜日だけで武漢郊外の墓参者は42万人と聞いてくらっときていた。バスも高速道路も込むだろうなと思っていた。何事も人と奪い合ってやらなければならない中国だもの。
宏基ターミナルではちょっと肩透かし。想像したほどの人出ではなかった。3人バスに乗り込んで発車を待つ。指定のはずだが、指定席は無視されている。相変わらず隣のおじさんが、立ったり座ったりせわしなく、デカイ声で知り合いに指示したり、まるで小学生のまま大きくなったおじさんみたい。これってかなり言いえている比喩です。

杜牧の詩の通り、清明節の江南は雨。しかも冷たい雨。騒がしさを静めるかのように窓の向こうの淡い色の変化を水滴が崩していく。
ターミナルから2時間少しで、仙桃市のターミナルについた。私は武漢郊外の墓地と勝手に思っていたので、そろそろ目的地に到着かと思った。中国人の学生たちといくと結構ミステリーなのは、緻密な日程表が明るみになかなかならないこと。それで、私も既に来た以上はなるようにしかならないと中国人化している。
バスを降りると人ごみの中から近付いてきた、若くて小柄な女性。一目見て、ああ、LY君の残した彼女なのだとわかる。それぐらい人柄のよかったLY君の好きだった人だという雰囲気がある。お化粧っけもなく、痩せているが、きっとお化粧をするともっときれいな素敵な女性だろう。
車の中でH君が、LY君の彼女が迎えにきてくれることになっています、いまでも彼のQQアドレスを使っていて、ハンドルネームが「永遠に一緒」で、写真も2人でうつったものなのだ・・・と聞いていたから、その痩せた小柄な体の中にある悲しい経験と痛みが伝わってきて、思わずギュッと抱きしめたくなった。
仙桃のターミナルから今度は「楊林尾」という鎮(小さい町)までのバスに乗り換える。そしてまた1時間以上あるというのだ。すでに10時を過ぎている。彼女と隣合わせに座り、ぽつぽつ話をしながら、時々車窓の向こうに目をやった。菜の花畑が雨に煙っている。両側の木々に新芽が伸びはじめ、それがまた一斉に咲く花のように美しい。薄黄緑から薄緑、そして白の花をぼかしてバスは進んでいく。



楊林尾は小さい町だけれど、小さなお店も並んでいる。清明節らしくそれぞれのお店にお墓に備えるためのはでな造花や果物が売られている。H君が果物などを買ってきていたので私はLY君のご両親に差し上げるお菓子か何かを買いたいといった。

スーパーを探して、彼女にも意見を聞いて箱入りの蜂蜜セットと、箱入りのお菓子を少し買い求めた。H君は朝食用になる牛乳飲料の贈答用を買った。
雨に降られながらまたバス停に向かう。結婚衣裳のお店が目に入った。そこからは20分程度の道のり。向花村というところで降りる。スーパーによった30分を含め、出発から6時間以上を経過していた。こんなにかかる小旅行だとは思っていなかった。
降りると長靴姿のお父さんが待ってくださっていた。


はっとするほど、LY君と似ている。彼はお父さん似だったんだ。まだ50代そこそこの髪も黒いお父さん。言われるままに道沿いについていく。10メートルも行かない畑の側に、20基ほどもあるだろうか、お墓が立っていた。四方跳ね上がった中国屋根の塔のようなお墓、今まで見た沖縄風のお墓とは違う。南方系はこうした塔の形だとか。雨で滑りそうになりながら、L君のお墓の前まで行った。1メートル50センチほどか。1982年12月15日と生年と卒年2009年1月11日が彫られていて、「愛するわが子LYの墓」と中国語で書いてある。

H君が買っておいてくれた紙銭をお墓の前でみんなで焼いた。煙が目に沁みる。みんなで黙々と紙銭を焼く。藁紙で作ったお金に火がついてメラメラと燃え、煙が天へ立ち昇っていく。天国で使うためのお金だ。中国政府は紙銭を燃やすことを反対しているらしいが、こんなことでもしないとお墓との対峙はできない。

 燃やし終わって、家のほうへ案内された。一面の菜の花畑。雨の中のおぼろな菜の花畑が夢をみるように美しい。ぬかるみに足を取られながらLY君の家まで行った。
農家が何軒か並んでいて、家の前はずっと見渡す限りの菜の花畑だ。鶏がいて、犬がいて、春は大地に新しい命を立ち上らせている。こんなに美しい風景の中、彼女とLY君の結婚式に呼ばれたのだったらどんなにいいだろうと思った。
 
典型的な農家の作り。入るとすぐテーブルと椅子。お父さんは何も言わずに使い捨てお箸を置いていく。そして家の奥からどんぶりに入った煮物などの料理が次々と運びだされてきた。H君が手を洗いたいというので私もついていくと奥の台所にお母さんらしい方がいらして、せっせとお料理を作っていた。お時宜をして挨拶をし、思わず胸がいっぱいになった。最愛の息子を亡くしてまだいくらも時間が経っていない。力無く床に伏していらしたいことだろう。それを、近くに食堂もない村、同学たちをもてなすのが親の義務とばかりたくさんの料理を作ってくださっている。バスの中などでLY君の彼女が盛んに連絡を取っていたのはこのためだったのだ。

みんなで食卓を囲んでさぁさぁ食べましょうとなった。が、私はお父さんやお母さんを見る度に涙がこぼれてしまって、箸が進まなかった。それを見たC君に「先生、たくさん食べないとおいしくないのかと思われます」と日本語でたしなめられた。そうなのかと思いなおして、お母さんがお茶碗に乗せてくださる卵など載せられるままに食べた。

お父さん、お母さん、小母さん、C君、LY君の彼女、H君と私と7人いて、あれぐらい何もしゃべらない昼食をとったのは人生でもはじめてだろう。誰も一言も言えないのだ。本当に一言も言える言葉がないのだ。
H君は後で、おじさんおばさんが方言しかできないから、うまくコミュニケートできなかったと言っていたが、そんな問題だけではない。
いい息子さんでしたね。といえば悲しませそうで、残念ですね、といっても悲しませそうで、何も言えることがない。


菜の花の咲く村のご自慢の息子さんだっただろう。将来をどれほど楽しみにされていたか。立派になった大学のクラスメートのことは一目みればわかるだろう。みんなそんなことがわかるから、一言も言葉にならず、黙々と一緒にご飯を頂いた。それでも、上海から電車やバスを何時間も乗り継いで来た意味はお父さん、お母さんには通じているはずだ。

そしておっちょこちょいの私はしっかりやってしまった。食後、家の前の菜の花や木々に萌えだした若葉を見たいと2歩前に進んだとたん、すってんころりん。ぬかるんだ土に転がり、泥だらけになってしまった。やるな〜私このタイミングで。
台所の竈の前で、お母さんがお湯を汲んで、レインコートの泥を丁寧に拭き取ってくださった。それから練炭の上で乾かすといいと言われたので、C君たちにも手伝ったもらいながら焼けないようコートを30分ほど焙ることになった。するとお母さんがLY君のお姉さんに赤ちゃんが生まれた話してくれた。がぁ、がぁと聞こえる方言もなんとなくわかる。
この村を包む景色のように、冷たい雨に煙る中に何か救いを感じるような気がしていたのはこのことだったのかと思った。きっと誰もが「生まれ変わり」を信じただろう。
LY君の作文で覚えているのが、まさしくそのお姉さんのことだった。姉弟仲が良くて、姉さんが戻ってくると嬉しいと書いてあった、そして豊かに実る桃の木があって、一緒にとった・・・そんなことだったと思う。もう3年以上前のことだから記憶の断片だけれどそんな内容だった。
彼に代ってお姉さんのお子さんが一緒に桃をもいだり、ご両親に喜びを与える日を想像してみた。やっぱり彼の作文のことは黙っておいた。

コートを着直して戸口まで行くとお父さんが男物の長靴を出してきて、バス停のところまで履いて行くよう言われた。かなりかっこ悪いとは思ったけれど、ぬかるみは結構長い。もう2度と転んでご迷惑をかけるわけにはいかない。大きさからいって、LY君のではないのだろうかと思いながら、長くつに穿き替えた。お母さんがズボンの裾を折ったりしてくださる。ご両親の記憶に残る日本人の先生になってしまったなぁと思う。
長靴の威力はすごい。あれほど滑りやすかった道が楽に進める。ピチピチランランランだ。またして手にした自分の靴でコートを汚してしまった。お母さんが盛んに「ハイズ」「ハイズ」靴がコートに当たっているよといわれていたが武漢語はくつを「シエツ」と発音せずに共通語の「子供」の発音と同じ「ハイズ」と発音する。武漢語と同じ発音なのですねなどと言いつつ泥道を歩いた。

バス道に出る脇に小川が流れている。小川の上にかかる新芽いっぱいの木、アヒルが泳ぎ、花が群がり咲いている。村の一番きれいな時期に招待されたような気がした。忘れられない風景は心の中に…。


バスが近づいてきたとき、お母さんの方へ向かい、肩をギュッと抱いて、「どうぞお体を大事になさってくださね」と一言行ってバスに乗り込んだ。

日本語なら「お墓参り」。
けれど、この3か月H君たちが使っていた言葉は「LY君に会いに行く」という言葉だった。LY君に会いに行き、そうしてご両親や彼女にも出会ってきた。


・丁度4年前4月7日にクラスで「魚とり」に行った。ここにある写真で立っているのがH君、ブルーのTシャツがLY君、LY君の後で網を引いているのがC君。3人一緒に一枚の写真の中の春。