一本の草

柔らかき春の到来。
日曜日、日中音楽会というのが大学で開かれ、そこで日本の古い歌曲を聞いた。作詞は白秋や藤村などだ。
それでちょっと読みたくなって時間のあるとき「青空文庫」を見てみると、藤村の「あけぼの」という詩にあたった。そして中国の人が訳した詩も見つけた。

我願化作一片雲、天辺一抹緋紅的雲,黎明的一片雲。
我願化作一片天,冲出暗夜初亮的天,黎明的一片天。
我願化作一泓水,披上春光艶艶的水,黎明的一泓水。
我願う化作一課草,鴿子足下軽柔的草,黎明的一課草。 
                  (1898年 林 范 訳) 課は木偏
私はなりたい 一片の雲に 空に一筋の緋色の雲に 黎明の一片の雲に
私はなりたい 一片の空に 闇を破って光さす空に 黎明の一片の空に
私はなりたい ひろき水に 春の光をまとって明るく光る水に 黎明のひろき水に
私はなりたい 一本の草に 鳩の足元にある柔らかき草に 黎明の一本の草に


                            
                          こんなところかな。
実はもとの藤村の詩は

紅(くれなゐ)細くたなびける雲とならばやあけぼのの 雲とならばや
やみを出でては光ある 空とならばやあけぼのの 空とならばや
春の光を彩(いろど)れる水とならばやあけぼのの 水とならばや
鳩に履まれてやはらかき 草とならばやあけぼのの 草とならばや


                         で、
古語の典雅な音の響きでかかれた朝焼けの絵だ。また絵の中で鳩の踏む柔らかい草の数は問題にされてはいない。一方、訳詩の方は「一片」のと表現された各行リズムを合わせるため、「一本の」草になっている。韻律にしても、量にしても違う言語の詩を訳しかえるのはかなりの難事だ。
私自身には「一本の草」であるか、一面の「草はら」であるかは問題ではない。

あかつきの空にたなびく雲、光る水、小さき鳩にふまれる小さな草。そんな春の一つひとつを感じて共感すること。


温かい春のきた喜びはわたしのいる場所にもある。