租界探訪とオリンピック

昨日は漢口の解放公園に花祭りを見に行き、その後、私の好きな租界の裏町をぶらぶらと歩いた。小さい居住地の単位を社区というが、そのあたりには、路地に面し当時外国人アパートだったと思える社区もある。北京でいう胡同のような路地だが、武漢の租界ならではの味がある。初めは勇気が要ったが、自然体で中に行けばそんなにどうということはない。小さいバルコニーのあるようなアパートに雑然と洗濯物が干してあったり、子どもがボール投げをしていたりする。
と、その一軒で内装工事中。ちょっとのぞくと30代初めぐらいのそこの家のお兄さんが、どうぞ中に入ってくださいと言う。いつも外から、中ではどんな生活があるのか想像しながら歩いた場所なのでお言葉に甘えて入らせていただいた。工事の人やお父さん、お母さんとおぼしき方もいる。
アパートの門を入って両側に部屋。中央に階段。右の部屋を内装中。重厚なこげ茶色の木製の扉や階段の手すり。1936年に建ったものでここはフランス租界だったんですよと説明してくれる。
客間としてそのまま復元補修中だそうで、4階12部屋まである自宅を自発的に文化遺産保護のつもりで大事にしているそうだ。
南に面してそれぞれ小さな庭があり、1階には金魚の泳ぐ小さい池、部屋には油絵がかかっている、4階の部屋には鳥籠や盆栽、金魚鉢など中国の文人の家に揃っているものが置いてある。鳥籠に小鳥がいないので、死んじゃったのですかと聞くと、はい、でも、隣のお宅には中国語が話せる鳥がいますよ、と言って指差す先の九官鳥がいて、イーアールサン(一、二、三)などと可愛い奇声を発している。わたしも「ニーハオ!」と声をかけてみた。

立派な革張りのソファや調度も部屋の雰囲気にふさわしく、チーパオを着て団扇で扇ぎながら40度を越える夏を過ごしていた当時の女性の姿などを想像してみる。波止場の賑わいから一歩入った路地の日々の生活、外国人の馬車の行きかうその界隈の生活はどんなだったのだろう。
そちらのお宅は、商業地にいくつも店舗などを持っていて貸していて、昔からそこに住んできたのだそうだ。どうぞ見て行ってください。自信のある人の余裕だ。
表を出て勝利街の方へしばらく歩くと、白い狆を散歩させていお婆さんに会った。白髪にネックレス、イヤリング、ベージュのパンツスーツ。こんなしゃれなおばあさん香港ならいそうだけど、武漢で見たことない。可愛いわんこですねというと犬好きと気がついて、鎖を渡そうとしてくれる。東京のうちにも犬がいるんですよと私。「いつも2回散歩に連れていくんよ、わたしゃ74歳、娘が3人息子が一人…」と本場、漢口の武漢語で人懐っこく話してくれる。このくらいディープな武漢語は60%ぐらいしか分からない。「おばさまはおしゃれですねぇ」というと嬉しそうにまた話が続いた。
昨日は会う人、会う人親切な人ばかりで街の探訪が楽しかった。そんな休日が私の疲れをすっといやしてくれる。
聖火が大陸について、武漢にもやってくる。解放公園には舞台が作られていた。聖火の足音とともに、排他的な愛国の声も上がっていた。が、租界を歩いて思う、人に優しい昔からの暮らしをしている漢口の人たちもいて、余裕がある人は誰にでも胸襟が開けるのだと。

オリンピックのカウントダウン歌は複数の有名なアーティストたちが一小節ずつ歌う。「新しい朝、お茶のいい香りが漂い、私たちはいつもドアを開いて、心を開いてあたなが来るのを待っている…」
見知らぬ人に、どうぞお入りください。昨日租界を歩いて体験したものと同じ中国の余裕のある人の伝統が、本来あるはずだ。中国人の皆さんどうぞ思い出してくださいね。