mklaoshi的攻防

午後から久しぶりの青空。週はじめは6時間、4時間と自分の授業があり、中文系では小さい発表をこなした。
中国の修辞学は欧米から入ってきた語用論(pragmatics)との関係が議論されており、そんな意味もあり伝統修辞学にも目を通すため、指導教官の修士の授業に出席し、最終日の今日、何か話をするよう命ぜられていた。
どこに準備の時間があろうか。でも、2週間前に渡された宋代・陳騤の「文則」の中「比喩十法」の訳注を眺めながら、であれば日中の比喩について少し考えようと思っていた。
構想をしつつ、昨日は合間を縫って図書館へ「月刊日本語学」比喩特集を探す旅に出た。閲覧室からはすでに消え、老図書館の埃臭い禁退出の書架の前でやっと出会うことができた。コピーしてもらう端から読んで、テイクアウトの晩御飯を買って10分で済ませ、日本語科の授業を8時まで。今朝は朝6時過ぎに起きてまとめた。
1.日中の比喩その分類法が違っていること。日本の換喩は陳望道「修辞学発凡」でいう、「借代」であり、提喩もなお比較検討が必要であること。2.認知的問題。たとえば最近市場で見かける「血橙」という果物の「血」という使い方。色の比喩3.中国の文学にある「女編」また若い女性の美を自然の形容に使った比喩表現、これは日本語の表現には少ないこと、朱自清や、徐志摩の作品を例に、そして、最後に、中国で村上春樹が読まれる理由の一つに林少華先生が挙げられた比喩の新鮮さのということその例を交えて比較して中国語で話した。
これが私という「灰色のあひる」が中文系に存在する意味だ。「政治的に」ではなくて、私のできる形で、世界には違うものの見方が存在すること、その意味を込めて話すこと。それを知っているのは私だけだけれど、それでも、多面プリズムがどこかに映ったと思う。目を輝かせて聞いてくれた院生もいたから。
そして終わるとなんとみんな一斉に拍手。「もう少し仕事を減らして専念できないのか」とおっしゃっていたCh教授も終始にこにこ顔で、終わって論文のためのアドバイスをしてくださった。
うーん、これはじつは守備範囲とは思わない。このところの中国の巷に溢れる過激を私なりの平和的で文雅なやり方で一つやり返すということでした。これこそが大きなメタファーですね。


「修辞学発凡」
を書いた陳望道・元・復旦大学学長は早稲田大学に留学し日本語版の「共産党宣言」を中国語に翻訳して持ち帰った人だそうです。
修辞学と日本と共産党の思いもかけない繋がり。