荊州城

mklasohi2005-10-03

武漢から西へバスで片道4時間、5000年の昔の楚文化発祥の地でもあり、春秋戦国時代からすでに長江中流域の交通、物流の中心地として栄えた街・荊州へ行ってきた。 ここは三国時代の呉、蜀、魏の中心に位置し、後、劉備が東の守りとして、関羽に守らせた歴史的な古城である。周囲約10キロ、城壁のそのまた回りをお堀が取り囲む。これほど城壁が完全に残っている街は中国でも少ないと言うことです。今のレンガ造りの城壁は明代に作られたものを一部現代になって修復したもの。城壁の上から遠くを見下ろすと、天下統一の野望に馬を走らせた劉備や武将関羽の高揚も伝わってくるような気がする。
 今回は学生2人と若いアメリカ人のKaren先生と4人の旅だった。学生達には「城壁の残るやや平凡な田舎街」だったようだが、外国人であるKarenさんや私には、中国の田舎もまた面白いし、数千年の昔から人が住み、交易や戦いが繰り広げられた場所に立つことに想像力を駆り立てられる。
 それで、昨日の午後は若い土地の運転手さんに「なん〜も見るとこないよ」とあきれられながらも、荊州城からまた7キロ北にある郢城(現・紀南城)という楚の国の都のあったところに車を走らせて貰った。たしかに今は農地が広がるばかり、土嚢のような城壁は草茫々でそれと知らなけれれば、楚の国を取り囲んだ土の城壁とはわからないだろう。
気のいい運転手さんは、「今のうちこの辺の土地を買っておくと、自分の土地から宝物がでてきて金持ちになれるよ〜」とか言っている。草の絡まる土の城壁を少しのぼると素焼きの破片をみつけたので、学生の一人に渡したら、記念に持って帰ってくれた。
 午前中に寄った荊州博物館に収められた西漢時代の第168号墓の、保存状態の恐ろしく良いミイラや埋葬品などはこの先で出土している。この王の体は未だに弾力をもち、ミイラというより「遺体」に近い印象だ。今はホルマリン漬けになっているが、これが2000年前の墓から現われたものなのだから当時の技術の高さには本当に驚いてしまう。保存に使われた強いアルカリ性の液体の中身はいまでも成分がよくわからいのだそうです。同じく陳列ケースに並ぶ48体の召使の木傭をみてKaren先生が「彼女たちには魂がこもっているのかしら」と聞くので、博物館の中とはいえ、2000年後の今もご主人さまと一緒ですねと答えた。
 荊州のバスターミナルが城外の沙市地区にあるため、おとといは到着後、沙市の街を歩き、長江の土手へ出、治水記念碑(荊江分洪工程紀念碑)を見、万寿宝塔という高さ7メートルの塔に登った。万寿宝は明の時代、末代皇帝の長寿を祈って建てられた石造りの塔で、中の暗い階段の両面にも仏像が彫られている。途中途中にある小さな窓から外を眺めるとヨーロッパのお城に幽閉された王女さまの気分で(笑)長江を眺められる。
回廊は長江への断崖に面して作られていて、そこに座ると宵闇迫る長江と全長10キロの荊州長江大橋が一望できる。このあたりは「長江万里、険在荊江」と言われ、長江でもいちばん流れの危険なところ、武漢でみる長江より川幅も広く、薄茶色の水が遠く海のように広がる。回廊からこの大河と橋の180度の眺めを独り占めで、4人とも疲れを忘れてぼんやりと見入ってしまった。学生たちは掛けるものがあれば、ここに泊まりたいというほど、長江滾滾、いくらでも見飽きない夕闇の流れだった。
 武漢を出発するときには、バスターミナル前のあまりの人と車の混沌にくらくらして、一日分の体力をすでに使い果たした気分だったが、人の行かない田舎を選んでよかったねと皆で長江を見ながら言った。中国の全国的なホリデーにはできるだけ人ごみを避けるのが賢明な気がします。
 急に下がった気温と、行きのバスの冷房のおかげで完璧に風邪を引いてしまい、休み中には今まで果たせなかった学生達との約束や仕事の準備もあるが、まず風邪を直さねば・・・ごほ。
 写真は荊州博物館での古楽器の演奏です。