美しい話

いよいよO先生が日本へ旅立つ。次に会えるのは冬の東京だろうか。
なぜ他の国の言語を学ぶのか。それには、さまざまな理由があるだろう。0先生にその訳を何気なく聞いたのはBEYONDのコンサートへ向かう車の中、答えは思いもよらぬものだった。O先生の許可を得て、ここに書き記します。
彼女が小さい頃、お兄さんがいろんな日本の歌のテープを持っておられ、一緒に聞いては、歌っていたそうだ。お兄さんも大学で日本語を学んでいる。じゃ、お兄さんの影響?と聞くと、いいえ、実は、母の影響ですと言う。え?
 O先生のお母さんには、異母姉妹のお姉さんが日本にいるのだと言う。戦前、おじいさんが、密航して日本へ渡り、とても頭の良い方で、日本語を学んでトヨタの社長の通訳をするまでになったそうだ。そして、日本人の女性と結婚、女の子が生まれた。戦争が始まり、中国に帰らなければならなくなり帰国、そのまま亡くなるまで二度と日本の土を踏むことはなかったという。中国に戻って、中国人の女性と結婚、お母さんが生まれた。亡くなる時に、初めて日本にいる娘の写真を見せて、何としても探して欲しいと言って亡くなられたそうだ。
 おじいさんの遺言を受け、お母さんは日本大使館に手紙を書いたり、一生懸命行方を追ったそうだが、手がかりが少なかったため、何年も見つけることができなかった。糸口を探したい一心で、お母さんはお兄さんに日本語を学ばせたのだそうだ。お兄さんが大学に入学、日本人の先生に出会って、この話をすると、その先生は各方面に当たってくれ、やっとお姉さんが仙台にお出でになるということを突き止めたそうだ。中国で妹が生まれたことを、初めは、半信半疑だったらしいが、幾つもの点で話が一致することから、妹であることを信じるに至ったそうです。    
 末娘まで、日本語教育で中国屈指の吉林大学の日本語科に送り込まれたお母さん。先日お宅にお邪魔してお目にかかることができたが、敬虔な仏教徒で、こんなお母さんに育てられたからこそ、彼女は聡明で、思いやりがある頑張り屋さんなのだと納得がいった。
さまざまな中国の「時」を生きながら、「その人を探すため」に、子どもたちに立派な日本語教育を受けさせるという、思いの深さに聞いたときちょっと胸が震えた。その深い心に応える志の高い子どもたち。先生は日本に行ったらその叔母様に会いに行くと言っておられた。
 そんな風に探してもらったら、そんな「日本語」で会いに来てもらったら、私だったら飛び上がって喜んでしまうだろう。